どちらが不幸か。

何故か、たまに言われること。

「あなたは細くて守ってあげたくなるタイプだから羨ましいわ。
私なんか見た目で判断されちゃって、態度が悪いとか嫌な奴だと判断されるの」

この「羨ましいわ」という言葉には、じっとりした悪意を感じる。

確かに自分は、細身に見られることもある。
一部の人にとっては守ってあげたくなるタイプなのかもしれない。

態度が悪いと判断されるということは、
そう見られる態度をとっているんだろう、と思う。
もし、見た目で良い風に判断されたいのであれば、
他人から見える態度を改めればいいのではないかと思うけれど、
そういう問題でもないらしい。

「羨ましいわ」に感じる悪意は、もっと巧妙で、
見た目じゃ判断出来ないものに対する信仰のようなものを感じる。

「態度は悪そうだけど実は優しい私」
「守ってあげたいタイプだけど実はしたたかなあの人」
「分かる人には分かる」、そんな信仰。

見た目で判断される事は、悪い事だろうか。
こんな事を言う人も、こちらを見た目で判断しているんじゃないだろうか。

知らず知らずに守ってもらえているならラッキーだと思う。
だけど、自分のそういった態度や所作には、少しコンプレックスを持っている。

 

見えない障害と見える障害、どちらが不幸か。

「見える障害のほうが周りからの関心を得られて幸せだ。
自分みたいな見えない障害を持っていると、誰からも助けてもらえず不幸だ。」

というような事を言っている人がいた。

男と女、どちらが優れているか。
FtMMtF、どちらがつらいか。
太っている人と痩せている人、どちらが長生きできるか。
目が悪い人と良い人、最終的にはどちらが優位か。
肉を食うか野菜を食うか、どちらが健康か。

どちらが、という話はいろんな分野で見かける。
でも、納得出来た事はない。

どちらが、なんていうのは、どちら、でもないと思う。

自分が不幸なのは、障害のせいでも性別のせいでも身体特徴のせいでもない。
自分が不幸なのは、自分が不幸だから。
自分を不幸だと思っているからだろう、と思う。

自分が幸せか不幸か、と、
ヒトが幸せか不幸か、という事はそもそも全く関係がないでしょう。

あなたが苦しいのは、報われないのは、不幸なのは、
あなたが見えない障害を持っているからではなくて、
あなたがそんなだからじゃないでしょうか。と言いたい。

どんな状況でも、他人を羨ましく思うことはある。
だけど何かいかにも正当っぽい理屈をつけて他人を貶めるのは、
とても醜い行為に思える。

自分はそうならないように気を付けたいです。